
そら、という名前が面白いなと思った。
南空――みなみ、そら。
なんて完結で洒落に満ちた名前だろう。しかしそんな名前を背負って生きていくのは少しばかり面倒そうだ。毎度毎度自己紹介で変な顔をされるんだろう。青木圭介という極々平凡な名前で良かったとしみじみ思っている、俺のように。
とまあ、小学生に上がる前の子どもがそんなことを思うわけもなく、空と同じ名前なのかいいなあと、そいつを眺めただけだった。純粋な少年時代よカムバック。いや、別にしなくてもいい。
空は変な奴だった。
何がどう変かというと、
「僕、宇宙人なんだよ」
などと、学校帰りになんて事なく告げてしまうような奴だった。
明日の体育サッカーだって、というのと同じくらいのレベルで、空は言った。
「そうか、お前は宇宙人だったのか」
五月の風が夕暮れの河原を吹き抜ける。少し湿気を孕んだ空気。一雨降るのかもしれない。
空の髪は天然の茶髪で、それがふわふわと風に合わせて揺れていた。
「うん」
「なんてあっさり言うと思ったかこの阿呆め」
「ひどい!」
前を歩いていた空が振り向いて叫んだ。
ショックを受けたと言わんばかりの悲痛な顔を作っている。
「ひどいのは、こんな爽やかな午後にくだらないことを言って空気をぶち壊しにするお前だ」
「圭介の方が成績悪いくせに」
ざくり。
空の言葉が俺の胸に突き刺さる。
「う、うるさい! それとこれと関係ないだろう!」
「俺のこと阿呆って言った。圭介の方が成績悪いくせに」
「だから……!」
「圭介の方が成績悪いくせに」
「……わかった、悪かった。俺が悪ぅございましたっ!」
俺が自棄になると、空がけらけらと笑う。
砂糖菓子のような笑い方。甘くてボロボロと。
甘い物が好きな空は、いつも微かに甘い匂いがした。
「昔は日本語もろくに出来なかったってのに……」
「べんきょーしたんですよー」
「ああ、そうですか……」
空は本当に成績が悪かった。
どれだけ悪かったかというと、まずあいうえおもわかってなかったし、一足す一も出来なかった。普通そういうのは入学する前に引っ掛かると思うんだが、なぜか奴は普通に普通の小学校に入学して、俺と肩を並べて学校生活を過ごした。
そして二年も経つ頃には周りに追いつき、小学校を卒業する頃には追い越し、今では俺のはるか先を行っている。噂では、どこかの大学のスカウトが来たとか来てないとか。
だから本当は。
「……お前、宇宙人だっていうのはマジなのか?」
「ん?」
「――いや、なんでもない」
そう?と空が首を傾げて、再び歩き出す。
鞄を持った手を大きく振って、どこかで聞いた曲を口笛で吹きながら。
まるで小さい子どものようだった。
けれど、その口笛の音は、どこまでも澄んでいて、きれいで、河原を歩く誰もが振り返った。キャッチボールをしていた子どもが、犬の散歩をしていた女性が、会社帰りのサラリーマンが、そのほんの一瞬を共有した。
「ほんとうだよ」
不意に口笛がやんだ。
「ほんとうなんだよ」
空が真っ直ぐに俺を見る。
夕焼けを背にして立つ空。あかく染まる横顔。
茶色の髪、砂糖菓子みたいな甘い匂い。風に解けた口笛。
ほんとうなんだよ――何が?
目の前に立っているのは、誰だ?
願ってやまない能力を持っている幼馴染みか? 優れたことが約束された優良人種か? それとももっと別の、それこそ人外の生き物なのか? ――だとしたら俺はどうするというんだ。
そういえば、空に口笛を教えたのも俺だった。
「な、圭介はナサの職員になりたんだろ?」
ポンと、空の手が俺の肩を叩く。
俺はそれで我に返って、空の顔を見る。
夕暮れに染まった空の微笑。いつもと変わらない。微かな甘い匂い。
俺はかろうじて頷いた。
「なら俺は宇宙飛行士になるよ。それで圭介に見守られながら宇宙に行くんだ」
「お前なら今すぐなれるだろう、有能な奴め」
「とりあえず大学でなきゃ無理」
「お前なら簡単だろ」
「どーだろうね。人生何が起きるかわかんないし」
俺の醜い羨望や嫉妬に気付いてただろうか。
空は、口笛を吹かくなった。
大気圏の向こうへ行くことは、もうそんなに難しいことではない。
俺がここでぼんやりコーヒーを飲んでいても、宇宙船は大気圏へ向かって飛んでいく。
あれだけ憧れた宇宙事業に関わる仕事をしていても(さすがにナサには就職できなかったが)それが日常になってしまえば、情熱は少しずつ摩耗していく。
「おい、青木、携帯鳴ってるぞ」
「ん? ……ああ」
ぼんやりしていたら同僚にたしなめられた。
服にしまいっぱなしだった携帯を取り出すと、着信は実家からだった。珍しいこともある。
俺は携帯を手に同僚の元から離れる。
彼の疲れてるなら少し休め、とでも言いたげな目が少しばかり煩わしかった。
「もしもし、母さん?」
父は三年前に急な病で逝ってしまったし、兄弟はいない。実家からかかってくるならまず母親だ。
『圭介? 少し平気かしら? そんなに急な話ではないのだけれど』
「平気だよ。ちょうど休憩中だったし、何?」
『お隣の三波さん、覚えてる?』
「……ああ、三波さん。うん、覚えてるよ」
隣の白くて清楚な家に住んでいる、なんとも穏やかな夫婦。
真っ白な壁に、きらきらと白いレースのカーテンがひるがえるのが、なんともきれいだった。
『お二人がね、引っ越しをするそうなのよ。子供もいないし、せっかくだから余生を田舎で暮らしてみたいんだそうよ』
「へえ。三波さんらしいね」
『ええ、本当に。……あら、でもおかしいわね。そのことを聞いたときに、あなたに言わなきゃって思ったのだけど――どうしてそんな風に思ったのかしら』
それはどちらかというと、独り言に近かった。
お隣の、三波さん。
穏やかで優しい夫婦――子どもがいなくて……?
「俺が、よく三波さんの家に遊びに行ってたからじゃないのか? ほら、中学生ぐらいの頃とか」
やけに舌が乾いた。
『ああ、そういえばそうだったわねえ……あなたってば、どうしてあんなに三波さんが好きだったのかしら』
不意に風に乗ってかん高い音が届いた。
途切れ途切れの音階。
懐かしい、口笛の音。
「空……」
『え、空がどうしたの?』
振り返ると同僚が気遣わしげにこっちを見ている。
いつもと変わらない、憧れた場所、日常。
「――いや、なんでもないよ。ちょっと仕事の話。そうだ、近いうちに休暇が取れそうなんだ」
あら、と電話越しに母の喜んだ声。
「……うん、だからそうしたら一度、帰るよ。父さんの墓参りもしたいし。うん、それじゃあ」
名残惜しそうな母親と挨拶を交わして、空を見上げる。
思い出した曲がある。
澄み渡る口笛の音――二十億光年の孤独。
万有引力とは、
引き合う孤独の力である。
それから、即座に休暇を申請して、なんとか三波さんが引っ越しをする前に実家に帰ることが出来た。
突然連絡もなく訪ねた俺を三波さんは笑顔で迎えてくれた。
そしていくつかの話をした。
突然夫婦の前に現れた子どものこと。
誰もが違和感なく二人の子供だと受け入れたこと。
彼が消えた日のこと。
そしてそれから今までのこと。
「君が来てくれる日を僕らは待っていたんだ」
旦那さんがそう言った。奥さんはその横で微笑んでいた。
「どうやらね、彼は一応関係した人たちから記憶を消していったらしいんだが……僕らなんかは一週間で思い出したよ。そういうところがあの子らしいと思っているんだ」
彼は言う。
「あの子はいなくなってしまったけれど、たくさんの思い出を私たちに残してくれた。あの子と過ごしたこの家にいたから、僕たちは忘れずにすんだんじゃないかな」
「……なら、どうして」
聞くと、二人は少しだけ寂しそうに笑った。
君は、どうして宇宙センターで働いているんだい?と。
「それは……憧れだったからで」
本当に?
最初はただの憧れだったはずだ。
憧れを、目標に変えたきっかけはなんだ?
「――俺は……」
答えを出そうとした俺の目に、涙がにじむ。
それは痛いくらいに目から溢れ出ようとして、思わず言葉を飲み込んだ。
「僕たちがこれから住む場所は、標高が高くてね。星がとてもきれいなんだ」
遠い口笛が聞こえる。
幻のように、俺たちの前で笑っていた空。
なあ、お前は今、口笛を吹いているのか。
空気のない宇宙さえも振動させて、口笛は届くだろうか。
お前なら、それが出来る気がする。
待っているから。
少しでもお前に近い場所で、待っているから。