
「夢の先に広がる、夢の情景」 後編・亀は水槽の夢を見るか
「それにしても、どうしたらもっと国光くんと話せるようになるのかな……」
国光くんのことを思い出したら自然と今の状況に対する不満が口に出て教室に響いた。学校ではあまり大声を出さないけど、今は特別。だってこの教室には私とクラスで飼育しているカメくんだけなのだから。
誰もいない放課後の教室は、授業をしている日中と違ってなんだかさみしげだ。広いけどきゅうくつな感じがしてあまり近づきたくない場所だ。そんな中に私が一人でいるのは、今日の宿題に出された手紙を忘れて学校に取りに来たからだ。家から徒歩十五分で着くし手紙は家で新しく書き換えても大丈夫だけど、もし誰かに読まれたらと思うと、いてもたってもいられなかった。とはいえ、手紙を取りに行くだけのために学校へ戻るのは面倒だと思ってしまう。 だから取りに来たついでにカメの様子を見ようと、おみやげに家から煮干しを持って学校に来たのだ。そして現在、まぐまぐと食事中のカメくん相手に、今日の国光くんについて語っている。
二年連続で生物委員会になったにも関わらず、私は一度も亀の面倒を見たことがない。 クラスで飼育しているはずなのに、世話はいつも生物委員の相方・国光くんがしてくれる。
委員会に入った時から国光くんが亀の世話、私が花の世話と自然に役割分担が決まっていた。だけど国光くんは私が花の水やりや雑草を抜くのを忘れると、黙って手伝ってくれる。だから私も水槽の水替えやご飯の準備を手伝いたいのだけど
「女の子って亀とか苦手なのでしょう?大丈夫だよ、僕一人で十分だから」
と言ってかわしてしまうのだ。そりゃあ私も蛙やイモリは苦手だけど、亀なら大人しいし、はねたりしないから面倒みられると思う。
『だから、一緒に面倒みよう』
そう国光くんに言い出せないのは、私が「女の子はカメが苦手」という、国光くんの女の子のイメージを壊したくないから。もし国光くんの女の子のイメージが「亀=怖い、近づきたくない」だとしたら、亀の世話をしたいと言う私は変わった子に思われるかもしれない。普段からお母さんや友だちに
「あなたはいつもボーっとして空想の世界に浸って。本当に変わった子ね」
と言われてしまうのだ。せめて国光くんにだけは、変わった子だと思われたくない。
だけどいつかは国光くんと、亀の世話をするかもしれない。そんな期待を込めつつ、私は水槽の亀にカメくんと名付けて話しかけ、煮干をあげている。もちろん国光くんには内緒。私とカメくん、一人と一匹の秘密なのだ。
変なところでおくびょうな自分が本当に嫌だけど、仕方がない。だって国光くんは私の憧れなのだ。 憧れの人に嫌われたくないという気持ちにはあらがえない。それくらい好きなのだ、恋ではないけど、国光くんのことが。
確かに国光くんは私の憧れだし、もっと国光くんと話せるようになりたい。けど、ただそれだけ。漫画や小説にあるような恋愛とは少し違うのだと思うのだ。私はまだ小学生だから、恋愛にはまだまだ無縁なのだろう。だから十二歳の私は十二歳なりに、同年代の国光くんのことが気になるのだ。
国光くんはなんでカメが好きなの。兄弟はいるの。休日はなにをしているの。どんな本を読んでいるの。宿題の十年後の手紙に何を書いたの、将来の夢はなんなの……。
国光くんに聞きたい言葉がいっぱい心にたまっている。行く宛てのない私の思いが、いっぱい。
こんなことばかり考える私はひょっとしたら国光くんに憧れているのではなく、ただのストーカーなのかもしれない。むむ、それって気持ち悪いな。絶対に嫌われるし、とても本人には言えないな。
「あーあ、せめて『国光くん』じゃなくて『アキラ君』って呼べたらいいのに。そんな勇気すらもないんじゃとてもフレアスカートが似合う女の人になれないよ」
右手でつまんだ宿題の手紙をヒラヒラと空に振る。揺れる私の気持ちをガシガシと煮干しをかじるカメくんに見せつけるように。
あーあ、本当になにやってるのかな、私。
『それが、お嬢さんの夢なのか?」
「そうよ、それが私の夢な、の……」
あれ、誰かの声がしたような?
周囲を見渡すけれど、当然のように放課後の教室には私しかいない。
窓の外から野球部の練習風景が見えるけど、声までは聞こえない。
さっきの声は、空耳?
そうキョロキョロと辺りを見回して、水槽のカメくんと目が合った。カメくんはじっとこちらを見つめている。
あ、カメの目ってすごく可愛いかも。
そう思った時、さっき聞こえた声が聞こえた。
『よろしい、おの夢は吾輩が叶えて進ぜよう』
今度は確かにカメくんの口から声が聞こえた。おじいちゃんのような声だった。
その声と同時に私がさっきまでいた世界は、音を立てて崩れ去った。
+
世界が崩れ、再構築された一瞬はとても長く感じられた。ほんのまばたきの合間に私は、学校沿いの桜並木に立っていた。毎日通る、学校までの通学路だ。
すごい、瞬間移動ってこんな感じなのだろうな。
辺りを見渡すけれど誰もいない。 あれ、さっきもこんなことしなかったっけ。 さっきはなにを探して見渡していたのだっけ。ついさっきのことなのに、ちっとも思い出せない。
というか、なんだろう、この服装。私こんな服持ってないよ。
私がいつも着ているのは、黒いセーラーカラーのシャツにプリーツスカート。学校の指定服だ。 それなのに今の私は黄色いアンサンブルに淡いピンクのフレアスカートを着用している。よくピアノの教室で見かけるおねえさんのような服装だ。私が憧れる、大人の女の人みたいな服装で、なんだかドキドキする。そんな内心慌てていた時に、トドメの一撃はやって来た。
「ふゆめちゃん、ここにいたのだね。」
落ち着いたテノールの声に聞き覚えは無いけれど懐かしい感じがする。いやそれよりも、この呼び方。
何度夢想したか分からない。もっともっと仲良くなって、いつか名前で呼んで欲しいと思っていたのだ、彼に。
「どうしたの。震えちゃって、気分でも悪いの?佐崎 冬夢ちゃん」
その声を聞いたら我慢できなくて、勇気を出して振り向いた。
アーガイル柄のセーターにズボン。すらっとして私よりいくらか背が高い。サラサラの髪に優しそうな瞳。間違いない。
「国光くん、だよね……」
「やっぱり調子悪いんだ、いつもはアキラって呼び捨てなのに急に苗字で呼んで。約束していた映画、キャンセルする?」
「映画……?私と、これから映画を見に行くの?そう約束していたの?」
「そうだよ、今日は『森よ、静かに眠れ』を観る約束していたじゃない。その後に亀のエサを買いに行こうって。本当にどうしちゃったの、冬夢ちゃん」
間違いない。これは今から数年後の世界だ。三年後か五年後かは分からないけど、近い未来の私と国光くんはまだ飼育委員をしていて、映画を口実にカメのご飯を買いに行っているのだ。そこまで私たちは仲良くなっているのだ!
そう思ったらとても嬉しくなった。国光くんと生物委員をする幸せが未来も続いているだなんて、幸せ以外のなんだというのだろう。しかも委員会以外の会話をしない国光くんとこんなに仲良くなれているとは。
「本当に、大丈夫?冬夢ちゃん」
「大丈夫よ、本当に大丈夫……アキラ君」
何度も心の中で言う練習をしてきた最後の一言。行く宛てのない私の心。国光くんの名前。
実際に口にしたら、驚くほど心が軽くなった。
「やっと言えた……あのね、私、ずっと国光くんのこと、名前で呼びたかったの。アキラ君って、呼びたかったの」
ただそれだけなのに、ものすごく感動してしまった。お母さんたちの言うとおり、私は少し変なのかもしれない。
ただの夢に、こんなに感動しているだなんて。
「ありがとう、アキラ君」
あなたは私に、素敵な夢を見せてくれた
手紙に込めた私の夢を叶えてくれて、ありがとう
そう口にした直後に再び世界が崩壊した。次の闇は、一瞬では収まらない位に長く思えた。
「僕も嬉しかったよ。ありがとう、ふゆめちゃん」
最後に闇の底からアキラ君の声が聞こえたような気がした。
+
「……ちゃん、ふゆめちゃん起きて。下校の時間だよ」
目を覚ますと、世界はとっくに再構築を終えていた。がらんどうの教室に私とカメくんとプラスアルファ。国光、アキラ君。
「国光くん…とっくに帰ったと思っていた」
「黒崎先生の所にいたんだ。先生がまた面白いものを仕入れてきたから今まで見ていてね。ふゆみちゃんこそ、もう帰ったんじゃなかったの?」
「私は宿題を忘れたから取りに来たの」
「そうだったんだ。教室でふゆめちゃんが眠っていたからビックリしたよ」
案の定というかやはりというか、私は眠っていたらしい。
なーんだ、とても素敵な夢を見ていたのに。私と国光くんが……あれ、どんな夢だったっけ?
「ところでふゆめちゃん、もう帰ろう。もうすぐ門が閉まるよ」
「そうね、もう帰らないと……」
あれ?さっき国光くん、私のことを「ふゆめちゃん」って呼んだ?いつもは「佐崎さん」と呼んでるよね。
あれ?あれれ?
「そういえばふゆめちゃん、カメのこと好きだったんだね。触れるとは思わなかったよ」
「うん、実はけっこう好きかも。カメって目がとっても可愛いのね、見ていてビックリしちゃった…驚いた?女の子が亀好きで」
「ちっとも。むしろそれは良かったよ。それじゃ今度から水槽の掃除を手伝ってもらえるね。いつもは黒崎先生に任せていたからこれからは二人でしようね」
「う、うんそうしようね」
あれれれ?
私、いつの間に国光くんとこんなに話せるようになったの?
「これからは休みの日には一緒に映画を観たり水族館に行ったりして、カメの研究をしよう。素敵な水族館があるんだ。ふゆめちゃんもきっと気になると思うよ」
「そうね、そこってペンギンもいる?」
「ペンギンもイルカもいるよ!ところでふゆめちゃん……」
国光くんは急に私に向き合うと、くちびるを私の耳元に近づけた。
そして、ビックリして息も出来ない私にこう囁いたのだ。
「もうそろそろ僕のことを『アキラ君』って呼んでくれてもいいんじゃない?」
もう一度、夢の中に落ちたのかと思った。
だけどこれは現実の出来事で、顔を離したアキラ君と目が合った時にアキラ君がニコっと笑って。
そうして私は『顔に火がつく』『恋に落ちる』それらの言葉を初めて体感することとなったのだった。
「ふ、フレアスカートが似合う女の人になるまでは……!」
そう俯いて言う私の頭上に
「却下」
というアキラ君の声が落っこちた。
この声音が少し楽しげだったのは、私の思い違いではない筈だ。
その日アキラ君は、ゆでだこみたいに真っ赤な顔をした私を家まで送ってくれた。そして日曜日に水族館へ行く約束をすると自分の家へ帰ってしまった。
「それと、今度ふゆめちゃんの夢を教えてね。ふゆめちゃんは気付いてないけど、君の夢ってとても強くて綺麗なんだよ。夢見る本人すら引き込まれるほどに」
なにやらアキラ君が意味深なことを言っていた気がするけど、私はただただ恥ずかしくて嬉しくて夢見心地で、相づちを打つことしか出来なかった。
そしてアキラ君が一日にして「憧れのクラスメイト」から「友だち」になったことを喜び、それからアキラ君の意外な一面に少し複雑な気持ちになった。
それでもアキラ君は相変わらずニコニコしていて素敵で、その笑顔を間近で見られてとても幸せだった。
夜、ベッドに入った時にその満ち足りた気持ちを思いだして、とても嬉しくなった。全てはカメ君のおかげだ。明日は奮発しておさかなソーセージをカメくんにもっていこう。水槽もピカピカにしよう、アキラ君と二人で。
まだまだ素敵な女の人には近づけないけれど、それでも私は確実に成長している。なりたい自分に、一歩一歩近づいている。
明日の朝、笑顔でアキラ君に会える喜びを噛み締めながら、眠りに付いた。とても、素敵な夢を見た。