亀は水槽の夢を見るか written by Nachika


 懐かしい手紙が私の元に届いた。
 それはほんの少し時間を共有したかけがえのない友人からの手紙だった。
 宛名はなく、雨や風にさらされて随分とくたびれた手紙だった。
 返事を書いても、それは届かないかもしれない。受け取る相手が今もあの場所にいるかすら、私は知らないのだから。
 それでも。
 返事を書いてみようかと思った。
 気まぐれで。
 同じように。
 誰にも宛てていない、すべての誰かに宛てた、私からの手紙を。
 不完全だけど、私の記憶の一部を記録するように。


 ……。


 お久しぶりです、あるいは初めまして。
 懐かしい手紙を読みました。とても懐かしい匂いがしました。
 それはほんの少し切なくて、胸をうずかせるような、そんな匂いでした。
 そちらには、誰かからの返事は届きましたか。
 こちらは最近、雨が多いです。近所の研究棟で、人工的に天候を変える魔法学を研究しているためです。失敗も多いようですが、少しずつ理論が構築されて完璧に近づいていく様は私に希望を教えてくれます。
 学園都市の周りでは相変わらず魔物たちが暴れていますが、一時期を境に少しずつ静まっていっているのがわかります。特に私は魔物の凶暴性やら性格やらを研究しているわけではないですが、とても興味深く観察をしています。
 あなたのいる辺りではどうですか。
 私は今、学園都市で魔術理論を中心とした研究を行っています。もしかしたら私らの作った技術があなたの元で使われているかもしれません。少しでも私らが費やした努力や時間が、あなた方の元で役に立つことを願っています。
 さて、また雨が降ってきました。
 緑の混じった匂いは、苔生した水槽の匂いとよく似ています。
 こんな雨が降るたび私はある人のことを思い出します。
 英雄と呼ばれた彼のことを。
 今ではもう伝説みたいになってしまっているので、あの人の実在を信じていない人もいるかもしれません。
 けれど、私は知っています。
 ルークという少年のことを。


 ……。


 私の意識は透明な檻から始まる。
 透き通っていて、世界はどこまでも続いているように見えるのに、ここには明確な壁が存在するのだと、わりと長い時間をかけて私は気づいた。
 絶対的な壁。
 境界。
 触れればコツと音を立てる。
 その壁を硝子と呼び、この檻を水槽と呼ぶのだと知るのは随分あとのことになるけれど。
 私は言葉を知っていた。
 たくさんの言葉を、気がついたときには解していた。
「おはよう、ギィ。今日も調子はどうだい?」
 白い色をした人間が私に話しかけてくる。習慣だ。
 人間の男、純粋な。
 珍しいような気がする。混じりっけのない人間というのは。彼本人から与えられる雑多な知識を編纂して導き出すとそういうことになる。
 ここ百年ばかりの間に人間と獣人たちの関係は変わり、混ざり合ったどちらとも言えないヒトが増えたのだという。
 時折やってくる男以外の人間を見ていればなんとなく把握できた。
 わりと特徴がでやすいのは耳や手足などの末端。
 獣耳だとか、水掻きや爪だとか、そういうもの。手足だけ肌の色が違うとか、獣のように毛皮に覆われているとか、そういうのも多いようだ。
 そして私は男とは逆の、純粋な動物だ。こういうのは意外と多い。そこら中に転がっている。ただし彼らは明確な知能を持たない。ぼんやりとした意識と本能と基本的な感情。そんなもので生きている。
 自然な形である。
 檻という概念を把握し、人間と動物の境界について考察する私の存在がだいぶ異常なのだ。
 私は研究成果。
「お前の知能はいつになったら開花するんだろうな」
 男がため息とともにはき出す。
 人工的に知能をいじられた、獣。
 男は長い時間をかけて、手に入るあらゆる獣を調べ、潜在的に知能を保有している品種と個体を探し出した。そしてその眠れる知能を表層に引きずり出したのだと男は言う。
 それが私のことだ。
「あらゆるデータを比較しても、やはり亀が潜在知能指数が一番高いんだが……梟の成果から逆算すれば、もうとっくに開花していてもおかしくないのだが」
 梟。
 部屋の隅に追いやられたもぬけの空の鳥籠。
 その中に囚われていた実験結果はとうにいなくなってしまっていた。
 死んだのか、逃げたのか。私に知るすべはない。
 ただそこにいたという記録を、男の口から聞かされているだけだ。
 たぶん、私が今考えていることや今まで自然と学んできたことを、この男にすべて語れば彼の研究のすべてが終わるんだろう。おそらく完璧な形で。
 そのとき私がどうなるのか、私にはまだ予測できない。
 このまま檻の中で今まで通りの日常が続くのか。
 外へ解放され自由な世界を与えられるのか。
 それとも。
 空の鳥籠は何も語らない。
 そこにいたはずの、知能を開花させた梟の、名前すら私は知らない。

 私の日々は鬱屈していた。
 毎日、白い男のため息を聞き、狭い部屋の中で得られるわずかな知識から推測を繰り返し、得られる答えなど限られている。
 推測に憶測を重ね、憶測が推測を呼び、巡り巡って堂々巡り。
 硝子の向こうの壁ばかりを見つめ、空の鳥籠から目をそらし続け。
 繰り返される日々。
 単調で機械的な毎日。
 いつまで。
 死ぬまで?
 果たして私に死が訪れるのだろうか。
 知識は増えたが、本能は限りなく失われてしまったように思える。昔はもっと、生と死について漠然とだけど理解していたように思えるのに。
 死ぬこととはどういうことだろうか。
 空の鳥籠が死を意味しているのだろうか。
 死した者はどこへ行くのか。どこかへ行くのか?
 この思考は。意志は。
 魂の実在?
 私はどれほど生きるのだろう。
 歪曲した時間。時計の針の音がねじ曲がる。
 絶対的な時間と相対的な時間、私に残された時間はどれほどだ。一瞬なのか、永遠なのか。明確な数字に意味はあるのだろうか。一夜と一日の区別もつかないような現状で?
「私は」
 誰もいない室内に、歪な声が響く。
 小さく小さく、人間の声とは違う、奇異な音の輪郭。
「……私は」
 返ってくる言葉はない。
 当たり前だ。問いかけすらしていないのに。
 何度も、水から遠ざけられた魚のように、必死になって呼吸を繰り返す。
 私は。
 私は。
 続く言葉を、いつの間に私はなくしてしまったのだろう。
 問いかける言葉すら。
 自分がどうしたいのかすら。
 疑問も希望も、何もかもなくして。
 人だったら涙の一粒ぐらいは零れるのだろうか。けれど私は亀だ。何も溢れない。
 空っぽのまま。
 この場にいない白い男に、私は何もかも打ち明けたくなった。今ここにいてくれればいいのに。
 何もかも打ち明けて、あなたの実験は失敗したのだと高らかに宣言して、そしてさっさと廃棄してくれればいい。
 こんな空転する試行を繰り返し、機械的に存在しているだけのものを、あなたは作りたかったのですか。
 知識があったところで、知能があったところで、それを受け止め支えられる土台がなければ崩れてしまうばかりなのに。
 こんなにも私は空虚で愚かで。
 何もない。

「それで、君は?」

 全身を光のようなものが駆け抜けていった。
 今まで一度も聞いたことがない声。
 幻聴ではない。確かに人の声がした。
 必死に辺りを見回せば、硝子越しに見える小さな窓に人影があった。ついさっきまでは確かに閉ざされていたはずの窓。いや、今まで見てきた中で、一度も開けられたことのない窓が、灰色の壁に見たこともない世界を映し出していた。
 闇に輝く光を背に、窓枠に腰掛ける姿は、何か人や動物といったものを超えた存在のように見えた。
「あなたは……」
「僕? 僕はただの旅人。部屋に入ってもいいかな?」
「え、ええ。私が許可できる立場ではないと思いますが……」
 ひらりと彼は窓枠から身を躍らせた。
 身のこなしはとても軽いように思える。
 朱で染めた服と羽帽子をまとい、肩から大きな鞄をかけている。手首や胸に見たこともない頑丈そうな物を身につけ、腰には剣らしき物を差していた。
 帽子の隙間から見える髪は少しくすんだ金色で、ふわふわと夜風に揺れていた。
 旅人。
 獣耳のヒトたちが話していたのを思い出す。ココロン石を持っているって言うから取引したのに、粗悪品どころかただの石ころだったのよと憤慨する女性を、旅人を簡単に信用するからだよと男性が呆れながら宥めていた。ほかにも、北の山に実験に行くときに旅人がいたんだけど、あいつら自然のバランスとか何も考えてないのね!手当たり次第に魔物を殺して、役に立ちそうな草木を刈り尽くして!精霊たちの姿が減ったり、樹人が絶滅したのも彼らのせいじゃないの!おかげでろくなデータがとれなかったわよ!と延々文句を言っていたこともあった。
 旅人を簡単に信用してはならない。
 本当に?
 今、目の前にいるこの人は、薄明かりの下でよくは見えないけれど、今までここに来たどんなヒトたちより優しげな雰囲気だというのに。
「君は……亀?」
「はい。亀です」
 彼は驚いたように私を見下ろしていた。
 ああそうか。
 私から彼が見えなかったということは、彼もまた暗くて私の姿がよく見えなかったのか。
「すみません、驚かせてしまって。私は実験結果なのです。動物の潜在する知識や知能を解放するという」
「実験結果」
 ぽつりと彼が言葉を繰り返す。
「はい、実験結果です。もっとも実験をしている人は、こうして私が喋れるようになったことを知りませんが」
 数時間ほど前に聞いた男のため息を思い出す。
 いつものため息。
 いつもの重苦しい時間。
「どうして?」
 私は言葉に詰まった。
 どうして彼の声に答えないのか。
 どうして沈黙し続けるのか。
 私の中に答えは出ている。
 しかしそれを言葉にして文章を構築するという作業が、思考に追いついてこない。言葉を一つ探す間に思考は三つ進み、そのずれが私を混乱させた。
「……鳥籠が」
 私がそう呟くと、彼は一瞬きょとんとしたが、すぐに片隅におかれた鳥籠に気づいたようだった。
「そこには梟がいたんです。私と同じ、実験結果でした」
「今はいない?」
 ここからでも鳥籠の中に何もないことがわかるのだろう。彼の声は沈んでいた。
「はい。どこへ行ったかはわかりません。私がここにいるようになった頃には、もうそれは空でした」
 空虚な鳥籠。
 久しぶりに鳥籠をじっくり見たかも知れない。極力視界に入れないようにしていたから。
「私は梟の実験が成功したと聞きました。けれどその梟がどこへ行ったのかは聞いていません」
 彼はまじまじと鳥籠を眺めながら、そっかと少し悲しげに呟いた。
「……わかったのですか?」
 自分でも曖昧で、言葉にすれば支離滅裂な、そんな説明で、この人は理解し得たのだろうか。
「明日が見えないのは、怖いね」
 怖い。
 恐怖。
 ああ、そうか。
 私はずっと、怖かったのだ。
 私の抱えていたものは空虚ではなく、恐怖という、感情という名のあるものだったのか。
「そうですね……私はずっと怖かった」
 私は何度も言葉をかみしめる。
 今まで見聞きし学んだ幾千もの言葉たちの中から、たった一つを探し出して光を当てる。
 そうやってただの記号だった言葉に、命を吹き込んでいく。
 意志、命、魂。
 そういったものに。
「でも私は、今のままの方が怖いです」
 変わらない檻の中。
 何も変えられず、何も変えず、いずれ訪れるかも知れない望まない変化をただ待ち続ける日々。
 岐路に自ら立つのは恐ろしい。
 けれど、ただ待ち続けるだけの日々はもう過ごしたくはない。
 彼は静かに頷いてくれた。
 理解してくれたのだと思った。拙く足らない言葉の意味だけでなくて、もっと、そこにこめた言い表せない思いも。
「あなたは……あなたの名前を聞いてもいいですか」
 彼は少し驚いたような顔をしたが、すぐに笑ってルークという名前を教えてくれた。
「君の名前は?」
「ギィといいます」
 私が名乗ると、彼は楽しそうに笑った。
 何かおかしなことを言っただろうか。
「どうかしました?」
「ああ、いや、君たちのご主人はわかりやすいなと思って」
「僕たちのご主人……?」
 彼の言っている意味が私には理解できなかった。
「ギィにクゥ。どちらもいい名前だ」
 鳥籠をそっと撫でて彼が微笑む。
「それが……そこにいた梟の名前なのですか?」
「知らなかった?」
 はい、という返事はかすれて言葉にならなかった。
 たくさんの感情が溢れて、うまく声にならない。
 嬉しいのか。
 悲しいのか。
 複雑で、深くて。
「ありがとうございます……あなたが来なければ、私は彼の名前を一生知らなかった」
 深々と頭を下げると彼は照れたようだ。
 お礼なんてと言いかけたところで、続く言葉は騒がしい物音にとぎれた。
 扉の向こうで、何人もの人が大声を上げている。
 いたか、こっちにはいないぞ、どこに逃げた、ちくしょう、すばしっこい奴らめ……そんな言葉が入り乱れる。
「……まずい」
「彼らが探しているのはあなたですか」
 居心地が悪そうに彼が頭をかいた。
「もっと君と話していたかったけど」
「ええ、私もです」
 彼がなにか悪事を働いていたとしても、私は彼を許すだろう。
 それに私は、罪悪についてあまり知らない。
 ここにいる間に、それなりに多くのことを学んだつもりになっていたけれど、私の知らないことはまだまだ無限に存在するのだ。
 できるなら、その多くを、出来うる限りを知りたいと思う。
 彼と様々な話がしたかった。
 私とかつてここにいた梟のことだけでなく。もっと。
「じゃあ……また」
 彼が入ってきたときと同じように、身軽な動きで窓枠へと登る。
 外には闇。そしてぽっかりと浮かぶ光。
 彼の向こうに輝くあの光を、きっと月と呼ぶのだろう。学んだ知識ではなく、どこか奥底からそれは浮かんできた。
 本能のように、知っていた。
「ええ、またいつか」
 四つ足の私は手を振り返すことは出来なかったけれど。
 彼の姿が消えた窓を、私はいつまでもいつまでも見つめていた。
 月が消えてしまっても。


 後日、この研究室を訪れるヒトたちの浮き足だった会話から、学園を狙った盗賊が出たこと、その盗賊を追いかける絶滅したはずの竜人がいたこと、さらにそのどちらとも行動をともにする正体不明の(おそらく人間の)旅人がいたことが知らされた。
 どうやらあの人は、やたらと複雑なことに巻き込まれているようだった。
 そしてさらに後日。
 学園中が混乱に巻き込まれた夜、いくつかの偶然と故意によって私は窓の向こうの世界へ飛び出すことになる。

 けれどそれはまだいつかの話。


 ……。


 あの人は私のことを覚えているでしょうか。
 私とのあの出会いのことを。
 もしもどこかであの人と会うことがあったら、そしたらどうか伝えてください。

 私は今でも、夢を追い続けていますと。
 あの頃、水槽の中で見た夢を。



――『宛名のない手紙』賢者ギィ・クゥの章より




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