
青の中でカモメが鳴く。
潮騒の中で聞くその声は、弱々しく哀しげだ。
昔に比べたら数が減ったと大人たちは言うけれど、真白にはあまり実感がない。
そもそも彼にとって、中学進学と同時にこの地に越してした移住者で、大人たちの言う昔は遠すぎる世界だ。
ただ、この一年でずいぶん数が減っているのは感じていた。
彼が高校生になって一年と半分が経った頃。高校生活も半分を過ぎて、朧気ながらも将来のことを考え始めるようになって、それでもまだそれは遠い話で。そんな当たり前の平凡な日常を送っていた頃。
唐突にそれは発表された。
地球の余命、一年。
先進国が中心となった世界機構が出した発表によると、その寿命は五年以上前から推測されていたという。異常気象、干ばつ、餓え、強大化した台風やハリケーン、地震や津波。ありとあらゆる自然災害が、ゆっくりと時間をかけてこの星に築かれた文明を崩していく。その滅びは一年後、地殻変動によって幕を開ける。
しかし安心してください、と画面の向こう側で、彫りの深い金髪の男が告げた。
この日のために世界が一つになり準備を進めてきた。そしてそれは、あと一年の余裕を残して、完成した。彼は力強く、誇らしげに言い切った。
今から一年をかけて、人類の大多数を宇宙に逃す。
そのために必要なのは身分証と避難申請の書類と、その身一つ。年若い者、健康な者、家族が多い者、そういった人間は特に優先的に避難の許可が下りるのだと。より多く、より確実に、人類という種を残すために、それは仕方のない手段なのだと。
真白はそれを、無感動に眺めていた。
もとより家族はいない。幼いころに事故で死んだ。それからは施設で過ごし、高校進学を期に一人で暮らすようになった。無口で、一人で過ごすことを好む彼には、特別親しい友人も限られる。
自分はそこに行かないと、避難予定の宇宙ステーションを華々しく映す画面を見ながら、淡々と彼は知った。
それが、半年前のこと。
避難する人間は、みんなこの街を離れていき、自然とこの世界に残ることを決めた者たちだけが残される。意外にもそういう人間は多いようで、ぎりぎりまでボランティアによる物資の支給が続けられるのだという。
残された、あるいは残った者たちが、醜い争いをしなくてすむように、世界機構は最大限の努力をしてくれるらしい。なぜそんな無駄なことをするのか真白にはわからないが、受けられる支給はありがたく受ける。おかげで生きることにさして執着のない彼でも、半年間穏やかに生きてこれた。
はるか海原の上空を舞うカモメを眺めながら、支給された米で作ったおにぎりにかじりつく。
水平線を見渡せる海岸の道。
そのコンクリートの縁
水がはぜるテトラポットの上に両足を投げ出し、ぼんやりと空を眺める。いつの頃からか、隣には必ずひとりの友人がいるようになっていた。
「具、何?」
隣に座っていた行生
彼の手には、不格好なおにぎりらしき物体が乗っている。強く握ると崩れてしまうのだろう。さっきから食べるのにずいぶん苦労しているようだ。
「梅干し」
「え、うそ。梅干しなんて支給されてないだろ」
「前に作ったのが残ってたんだよ」
そう言って、おにぎりの詰まっていた弁当箱からもう一つを取り出す。片方のおにぎりをかじりながら、もう一つを行生の目の前につき付けた。
「え、いいの?」
「たぶんこうなるだろうなと思ってた」
「へへ……さんきゅ。さすが真白」
心底嬉しそうに行生がおにぎりを受け取る。
無口で表情も滅多に変わらない真白と、くるくると表情の変わるお喋りな行生。二人を繋いだのは、美術のモチーフだった。
クラスが違い、二クラス合同で行われる美術の授業も違い、それなのに同じモチーフを使って作品を作った。教師からそのことを教えられ、それが二人の間をつないだ。
「褒めてもこれ以上はやらないからな」
「わかってるって。んー……うまいっ!」
必要以上に行生が感動している。
「ただのおにぎりだろ」
「だってうまいんだモン」
「モンとか言うな。おにぎりで失敗できるお前にびっくりだよ、俺は」
二人の間に広げられた弁当箱と、その周りに散らばる画材を見下ろす。開かれたままのスケッチブックには行生が描いた風景が広がっていた。
その辺の文房具屋で手に入る二十四色の色鉛筆で、二人は何枚も絵を描いた。
二冊のスケッチブックを埋め尽くすように次々と。
「手先は器用なのにな、お前」
「器用じゃねえよ。針に糸通せねえし」
「規準それかよ」
珍しく真白が吹き出す。
「なんだよ真白は通せんの」
「まあ、ボタンつけるぐらいはできる」
弁当箱の最後の一つを手にとってかじりつく。
自作おにぎりを苦労して食べていた、行生が目をむいて振り返った。
「うっそ、今度やってよ。ボタン取れて困ってたんだよ」
「……まあ、いいけど」
真白が呟くと、二人の間に穏やかな沈黙が降りる。
潮騒だけが変わらずに繰り返されている。
「なあ、そろそろ避難、始まるんだよな」
遠くに去っていくカモメを見つめたまま、真白が言った。
「ん、ああ……宇宙への避難な」
行生は一瞬、真白の横顔を見つめたが、すぐに彼と同じようにカモメの行く先を見やる。
「――行生は……」
潮騒に溶けるような呟きが零れた。
ためらうように真白は口を噤んで、やがて覚悟を決めたように、行生の顔を真っ直ぐ見据えた。
「行かなくて、いいのか?」
宇宙へ。
先へ逃れた家族の元へ。
何度も噂で聞いた、社長令息の宮野行生のことを。穏やかだが優秀な父、美しく優しい母、彼をまだ名字で呼んでいた頃にも、名前で呼び合うようになった後も。
一度だけ、行生の家に行ったことがある。家族というものをよく知らない真白でも、その暖かさは感じられた。本当に絵に描いたような、幸せな家だった。
宇宙で逃れるようにと必死で縋り付く家族を説得して、彼は一人、この地に残ることを決めた。
「……お前こそ」
「俺は――別に、そうまでして生きていく必要もないなって」
ふうん、と言うと行生は黙り込んでしまった。
水平線を睨んで、そこに何かを見ているようだった。
カモメの姿はもう見えない。
「……おい、見ろよ」
「え?」
唐突に行生が立ち上がった。
指さした先は水平線の際。
銀に輝く何かが、白い雲を伸ばしながら空へと昇っていく。続いて飛行機が頭上を過ぎるような轟音が響いてきた。
「なんだ!?」
真白も続いて立ち上がると、銀の輝きに眼を奪われる。
「――――舟だ」
轟音の中、やけにはっきりとその声は聞こえた。
響き渡る轟音が、辺りに満ちていた穏やかな音をかき消していく。潮騒も、遠いカモメの鳴き声も、すべて。
ゆっくりと空を昇っていく輝き。
星を逃れる希望たちを乗せたその舟が、今、天へと昇っていく。
呼吸さえ忘れて、真白はその光景を見つめていた。
そこには嫉妬もない。悲しみも孤独も、憎しみも、色めくような歓喜もない。
胸を焼くのは、祈りと呼べたのかもしれない。
ただひたすらに、その舟が天へ届くことを祈った。
そこに託されたすべての希望が、消して絶えないようにと。柄にもなく、深く祈った。
息を、止めながら。
「……なあ、真白」
銀の輝きが天の彼方へ消え、穏やかな海岸の音が戻ったとき、行生が静かに呟いた。
「俺、このために残ってたのかもしれない」
輝きが消えた空を、行生はずっと見つめている。
一瞬も目をそらさずに、空の一点だけを。
「こうして、見送るために」
掠れた声で、それだけを呟いた。
真剣な横顔を見つめた後、真白もまた、空を見上げる。
遠くでカモメが鳴いた。
希望を託されていく者たちよ。
どうか、振り返らずに行って欲しい。
俺たちが、ここから見送るから。