花氷の行方 written by nachika



 氷があった。
 それがたとえば、北の尾根を超えた雪国だったり、魔法を嗜む者たちが集まる西の都市だったり、あるいは洞窟の奥深くだったりすれば何とも思わなかったかもしれないが、ここでは完全に異質な物だった。
 その氷は美しい花を中に閉じこめて、彼の前にそびえ立っていた。
 平均より少し小さい彼の身長から考えると、人間の成人男性くらいはあるだろう。
 ぽかんと氷を見上げながら、彼は花を見に来たのかい、と訪ねてきた男のことを思い出した。


  ***

「花を見に来たのかい?」
 砂色のローブに身を包んだその男は、砂の民かあるいはその血を引いているのだろうと一目見てわかった。
 砂の海と称される大砂漠。そしてこの地に昔から住む赤銅色の髪と褐色の肌を持つ砂の民。大変期と呼ばれているこの数十年の異常気象やら魔物の凶暴化で、その大半が故郷を離れ大陸中に散ったと聞いていたが、いるところにはいるらしい。彼は少し感心した。
 自分が流れ者だからか、一つの場所に長く根を張れる人たちのことを少しうらやましく思う。
 彼には名前がなかった。
 気がついたときには何一つ持たず、無人の家の前で立ちつくしていた。家には長いこと人が帰っていないようだったし、家の中は見事にほこりをかぶっていたし、自分は完全に途方に暮れていたので、そのままそこで暮らすことにした。
 やがてその家での生活も安定したころ、何か自分のかけら一つでも見つからないかと旅に出ることにした。
 行く宛てもなくふらふらと各地を放浪して、戻りたくなったら家に戻る。そういう生活を続けているうちに、いろんなことに巻き込まれたり利用されたりしながら、名前のない自分の存在を結構な人に知ってもらうことができた。
 誰かの家だった家が彼の家になり、次第ににぎやかになっていくのが何よりも嬉しかった。
 それでも彼は旅をやめなかった。
「なぁ、あんた、花を見に来たのかい?」
 砂の民の男が聞いた。
 ぼんやりとして特に反応を示さない彼に少しじれたようだった。
 彼は長く考え込んだあと、花って何のことかと聞き返した。
「あんた知らないのか? 砂の海に咲く永遠の花といったら、かなり有名なんだがなあ」
 彼は首を横に振る。
 それを見た男は、疲れたようにため息をついた。
「……そうかい。俺も年をとったね」
 男は腰元の革袋を取り出して、水をあおった。
 動作だけで進められたが彼は断った。もしかしたら葡萄酒のたぐいかもしれないと思ったからだった。
「この砂漠のどこかにはな、永遠に枯れない花が咲いているって、一時期はそれ目当てに何十人何百人と旅人が訪ねてきたもんさ」
 男の目は遠い。
「けど、この砂漠は慣れた奴でも時には死ぬ。旅人たちの半分は砂の下で、もう半分はとっとと逃げ帰った。俺はその中のほんのごく一部、気に入った奴を見つけては、適当に値段をふっかけて花のところまで案内して日銭を稼いでいたんさぁ」
 自嘲するようなか細い笑い声が話す声の合間に挟まった。
「久しぶりに目にかなう旅人に出会えたと思ったんだがねぇ。なあ、あんた、特別サービスだ、俺を連れてくって条件で花のところまで行きゃしないか。料金はただにしといてやっからよ」
 彼は二、三度瞬きをすると、ためらいもなく頷いた。
「……あ? あんた本気か?」
 なぜ?と彼が聞き返す。
「こんな酔っぱらいの話を信じて、この砂漠を歩こうってのか、正気じゃねえな!」
 なんだやっぱり酒だったのかと彼は思ったが、なら行かないとは言わなかった。
 彼には目的がない。だから少しでも関わったら身を引くことはしない。旅に出るときにそう決めた。
「……まあいい。あんたが何考えているかは知らねえが、こっちもこっちで勝手にやらしてもらうさ」
 男の案内で砂漠を歩いた。
 魔物が出てくると男はどこか物陰にさっさと逃げ、彼が退治するのを待っていた。彼は男を責めない。魔物と戦える腕を持っている方が希少なのだ。彼もはじめは魔物と会うと逃げてばかりいた。
 さらさらと流れる砂丘をいくつも越え、周りの景色に岩や多少の緑が混ざり始めた頃、もうすぐだと男が言った。
「ここから西へまっすぐ歩くと、岸壁が丸く囲ってる場所がある。壁づたいに歩けば、中に入れるところがあるはずだし、それが面倒くせぇなら壁を登っちまえばいい」
 そう言うと、男は岩陰に身を収め、ここで待ってるからよと呟いた。
 行かないのか?と聞くと、男は黙り込んだ。
 しばらく二人で沈黙していたが、やがて彼は男に背を向けて歩き出した。



  ***

 彼はぼんやりと氷を見上げていた。
 表面に手を触れると、ひんやりとしていて心地良い。
 けれど体温で氷が溶ける気配はなかった。
 氷の中に閉じこめられて花は、心なしか人の形をしているようにも見えた。全身を花で包んだらこんな感じになるんじゃないだろうかと、彼は首をかしげながら考える。
 そういえば、遙か昔、森の中には樹と人間と精霊の間のような生命がいたとか、そんな話をどこかで聞いた。
 あれは翼人の娘だったか。
 昨今の大変期でまた自然の力が弱まっていると、とても心配していた。
 まあ、それはそれ、これはこれ、暑さにまいり始めていた頭を氷に預けて冷やしながら、これからどうするか彼は物思いにふける。
 氷の花が見たくて砂漠に来たわけではないし、かといって何しに来たというわけではないから、これはこれでいいのだけれど。
 何かこのまま帰るには物足りない。
「……まあ、いいか」
 ぽつりと呟くと、彼は身を翻し岩陰で待つ男の元へと戻ろうとした。
 不意に、その足が止まる。
 何かが耳に響いたような気がした。
 耳を澄ませば聞こえてくる。
 それは歌だった。
 いつの間にか耳に入り、気がつけば誰もが知っているような、そういう歌がある。
 流れ歌と呼ばれて、なんとなく人々の口を伝わって広がる、単調なけれどたくさんの思いが込められた、そういった歌の一つだった。
 誰かが、そうだ、あれは故郷を離れた砂の民の知り合いが口ずさんでいた。


  砂漠に咲く赤い花
  砂の男は恋に落ち
  花は夜ごとに露を編む

  月夜にふるえた禍夜時
  男は花を王に売り
  花は涙に凍り付く

  砂漠に咲いた赤い花
  散りゆく日は二度と来ない


 とぎれとぎれの歌は、男の声だった。
 彼はその場で立ち止まり、しばらく考え込むと、迷いのない足取りで男の方へとかけだした。
 彼の足音に気づくと、男ははっとして歌うのをやめた。
「よう、遅かったじゃねえか。そんなに花はきれいだったか?」
 できる限り平静を装う男のことは無視して、彼はその腕を強引に引っ張った。
 急に日差しの中へ引っ張り出された男はあわてる。
「お、おい! なんだってんだいきなりよ!」
 それでも彼は強引に男を引っ張った。
 岸壁の中へ連れて行こうとしているとわかると、男はよりいっそう暴れた。
「おい、やめろ! 何考えてんだか知らねえが、余計なことすんじゃねえ!」
「……何年」
 ぽつりと彼が言った。
「あ?」
 聞き取れなかったのか、男が苛立たしげに聞き返す。
「何年、待っていた?」
「なんのこと……」
 はっとして岸壁の向こうを見る。
「あいつは俺なんか待っちゃいねえよ……俺は裏切り者だ。おかげで俺は一族でも鼻つまみ者さぁ。砂漠を捨てて移動するときも、連れて行っちゃくれなかった」
 ははっと男が笑う。
「……僕は根無し草だけど」
 彼が小さな声で言った。
 男が続く言葉を待って、彼の顔を見る。表情は一切変わらなかったが、必死に言葉を探しているのが男には何となくわかった。
「ずっと一つの場所にいられることをすごいと思う」
「それが何だってんだ、俺はどこにも行けなかったただのはみ出し者だ。隅っこで小さくなってるのがお似合いなんだよ」
 彼は返す言葉もなく口を結んだ。
 男はむなしく笑い続けている。
 それでも、彼の手は男の腕を放さなかった。
「……離せよ」
 彼はまっすぐな目で男を見つめている。
 どこかで見た色だなと男は思った。
「離せっつってんだろ!」
 どんなに腕を振り回しても、彼の手はふりほどけない。
 伊達に小さな体で魔物と張り合ってはいないらしい。彼は身じろぎ一つせず男を見つめ続けていた。
 自分の力のなさやふがいなさが思い知らされる。
 唇をかみしめて俯いても、惨めさは増すばかりだった。
「ずっと待ってたんだろう」
 彼が決めつけるように言った。
 男はすぐに理解できずに眉をひそめる。
「行く理由ができる日を、待ってたんじゃないか」
 はじかれるように男が顔を上げる。
 とっさに罵倒する言葉が口から出そうになったが、彼の目を見た瞬間、不思議とその言葉はどこかへ消えてしまった。馬鹿みたいにきれいな蒼だと思った。
「……どこかに行くことは簡単なんだ」
 彼がゆっくりと口を開いた。
「行くことだけなら、誰にだってできる」
 澄み切っていると思った彼の目が少しだけ翳る。
 ぐい、ともう一度腕が引かれた。先刻のような有無を言わせない強さはなかった。
 男は逆らえるその腕に、今度はおとなしく引っ張られた。
 それでも僕はどこにも行き着くことはできなかったんだと、蒼い目がいっているような気がしたから。
 砂漠の光の下で輝く氷を見たとき、男は不意に思い出した。
 ああいう色を、海の色みたいだというのだろうと。



  ***

 氷の前まで男を連れて行くと、男は吸い寄せられるように近づいていった。
 冷たい表面に手を触れ、頭を押しつけるようにして何かを必死に語りかけていた。

「……泣かないで」

 そっと花の中から現れた細い腕が、男の肩に触れた。
 今にも消えてしまいそうな声で、ありがとうと男が言ったのが聞こえた。


 やかで彼は一人、砂漠をあとにする。
 流れ歌通りのことが本当に起こったのかはわからない。歌は流れるもの、流れにまかせて変わるもの。
 ただ砂漠に咲いた花について、今度砂の民の知り合いにあったら教えようと、そう心に決めて彼はひとまず旅を終えることにした。
 彼は、そして彼らは、これからどうするんだろうか。
 路の向こうで小さくなる砂漠を振り返り、少し考えた。
 しかし、それもすぐにやめてしまう。
 旅を続けていれば、いつかまた会うこともあるだろう。
 それまでは。


  砂漠に咲いた赤い花
  手折る手とともに風の中

  花の行方は誰も知らない




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