夜啼禽(ナイチンゲール)

その声音
その(まなこ)
その仕草
そのコトバ

貴方は何を 隠していたの
貴方は何を 思っていたの
この疑問は風に舞い
何時か貴方に届くでしょうか

これは悪夢
仄暗い闇 覚めぬ夢

すべてを告げずに
貴方はいった。

私に


「 サ ヨ ナ ラ 」


 月の砂
   コールドネーム


 「彼女」は自分のことを覚えていない。
 だが、その人生のほとんどが何の変哲もない、変哲もなさ過ぎるものだったと「彼女」は思っている。なぜなら、どこを探しても()「彼女」を示す手がかりが出てこないからだ。
 何の賞も名前を残さず、特筆する特徴もなく。
 没個性。
 あまりに「彼女」の存在は埋もれて(ヽヽヽヽ)いた。
(……けど、いくらなんでも学校には通っていただろうし、最悪、出生届ぐらいは出てるだろうし)
 「彼女」は記憶がないことをそう悲観してはいない。
(ていうか、そういう書類ってどっち(ヽヽヽ)なんだろう)
 首をひねる。現在そうしているように、とりあえず女と言うことにしているのだろうか。その方が楽だ。
 「彼女」、紫月(しつき)には性別がない。なにもない。
 ただ、紫月という名前と黒い石で作られたピアスだけを与えられて、彼女は世界に一人残された。いまだ少年のような体つきで、男装の麗人のような顔立ちをして、街を颯爽と歩く姿は不思議と生々しさを感じさせない。
 歩く紫月の隣には誰もいない。本来いるはずの男は現在内密で仕事中。別行動、というよりは単なる蚊帳の外だ。
(ま、フリンチョーサなんて柄じゃないし)
 それがわかっているから彼も一人でやると言いだしたのだろう。ありがたいと言えばありがたい。しかし紫月は自分が映り込むショーウィンドウを覗き込み、その中性的な顔をわずかに歪ませる。
 映っているのは自分と、誰もいない右隣だけ。
(そういえば、あいつがいつも右にいるのって、()の右目が悪いからか)
 視力が少しずれているだけだが普段左で物を見ているためか、右からの襲撃(ヽヽ)に弱い。奴がいることで右側を気にしなくて良いのは楽だった、と紫月は思う。
 守られている、という実感。
(――に、どうしていないときに気付くかな)
 いつもいる人間がいないと寂しい。
 それが、恋という名なら余計に。
「――――――――――――――――げっ」
 歩き出した足が反射的に止まる。呆然とした。自分の感覚に。
(いや、恋は……恋だけどさ)
 奴と出会って一年、無意識のうちに惹かれて半年、自覚して数ヶ月。
 そして、確かめ合って、約二ヶ月。
 拙い感情は日々追うごとに確かなものとして紫月を浸食する。それはまるで、波が硬い岩を削るように、とても自然に訪れる。それを心地良いと思ってしまう自分にさらに驚く。
 ピリリ、と鋭い電子音が振動とともに紫月の意識を切り裂いた。
 メールだと咄嗟に理解するものの、心臓が跳ねるのがわかる。基本的に紫月は音が鳴る物が好きではない。携帯も相方があまりにうるさいから持ったまでで、その存在を伝えた相手は数えるほどしかいない。
「……蜜宵月(みつよいづき)?」
 携帯を開いた彼女は、思わず表示された名前を呟く。その名が示す人物は、あまり連絡というものを取ろうとしない。ひょんなことで知り合った、病んだ十七歳。……そもそも彼女は携帯を持ち歩いていただろうか。

『今宵、時間があるなら、月のもと私の母校で語り合いましょう』

 母校?
 紫月は眉をひそめる。
 まったくもって蜜宵月らしくない。紫月はそのまま携帯を睨んで、逡巡することなく慣れた手つきで相方に連絡する。ああ、こういうときはやっぱり便利だ。
「俺。今夜の予定、キャンセルだ」
 ワンコールで出た相手に、前置きなく伝える。
 連絡があった時点で、いろいろ想定していたらしい相手は特に驚いた様子も見せない。
『……相手は』
 それでも声がいつもより低いような気がするのは気のせいだろうか。
「蜜宵月」
『――ああ……あの住所不定無職』
「この間会ったときは無職ではなかったけどな」
 おおざっぱな相方の物言いに、紫月は苦笑して一応フォローを試みる。が、あまりフォローにならないのはわかりきっているので、すぐに表情を引き締めた。
「あいつの母校ってわかるか?」
『調べりゃわかると思うが、すぐか?』
「できたら」
『わかった。メールする』
 抑揚のない声を頼もしいと思うようになったのはいつからだろうか。
 どんな状況でも心から信頼出来るようになったのは。
 少ない言葉でその心情をはかることが出来るようになったのは。
 身体が触れ合っているだけであんなにも満たされるようになったのは。
 通話が切れても、紫月は携帯を手の中から話すことが出来なかった。そういえば、最近は忙しくてゆっくり話も出来ていない。今夜の予定だって、仕事関係だ。
 歯痒いな、と思う。
 身体のうちで何かが足らない。
 不意に、蜜宵月と出会った頃のことを思い出した。
 夕暮れの公園で、人形のように四肢を投げ出してブランコを揺らしていた少女。赤く染まる世界の終わりのような空を、蜜宵月はただ何の感情もなく見つめていた。

「   」

 なんて声をかけたかは覚えていない。
 振り返った彼女の目は硝子玉のように揺らいでいた。ゆらりと、丸い目が紫月をとらえる。
「この夕日が沈んだら、私も消えてしまえると思う?」
 澄んだ声だと思った。
「わからないよ」
「……そうね。ねぇ、私きっと明日死ぬわ。だから、この日が沈むまでは生きるの」
 彼女の目が再び夕日に戻った。太陽は街並みに遮られて、もうわずかしか残っていない。境界の向こうへ、姿を消そうとしている。
 冷たい風が吹いた。
 黄昏が終わる。
 日が沈んで、曖昧だった世界が夜の匂いを発し出す。
「夜の間は、生きるんだろ?」
 動かない彼女に紫月はそう声をかけた。
「そうね、生きるわ」
 彼女はそれでも動かない。徐々に赤みを失っていく西の空は、まるで死に逝く命のようだ。
 無言のまま彼女の姿を見つめていて、そういえば自分は通りすがりだったのだと思い出した。知り合いでもない、名前すら知らない、そんな相手に自分は何をしているのだろう。
 だが、彼女の隣からは離れがたかった。
「あなたは?」
 何の前触れもなく彼女が振り返った。
「え?」
「あなたは明日も生きていられると強く信じているの?」
「……わからないよ」
 絞り出したような紫月の声を聞いて彼女は笑いをもらした。
「自分のことなのにわからないの?」
「自分のことだからわからない。私、は……一度記憶をなくしているんだ。同じ事がまた明日起こるかもしれない。ここにいる『私』は明日消えるかもしれない。だから、わからない」
 記憶をなくしたと聞いて、彼女は少なからず驚いたようだ。人形のようだった表情にわずかな衝撃が走る。
「……そう、記憶が」
 硝子玉のような目がまっすぐに紫月を見つめていた。
 しばらくの沈黙。空はすっかり青く染まっていた。
「私は蜜宵月」
「……紫月、だ」
 薄闇が降りた公園で、蜜宵月は花のように笑った。
 それが始まり。

 夕暮れになると、時折あの公園へ行った。
 蜜宵月がいるときもあったし、いないときもあった。しばらく待っていると彼女がパンの耳を持ってやって来たこともあった。紫月を待って彼女が一人で夜を迎えたこともあっただろう、紫月と同じように。
 口癖のように蜜宵月が明日死ぬというのを聞きながら、口癖のように今日は生きるんだろと返した。
 出会ってから数ヶ月経ち、紫月はようやっと蜜宵月の存在を相方に話した。相方曰く、蜜宵月はそれなりにその手の世界では有名人であり、異端であったようだ。
 パンの耳を抱え、寂れた公園で黄昏を過ごす少女。端整な顔立ちに長い手足、闇に溶ける色の服を好んで着て、歌うような声で明日死ぬと語る。……少なくとも普通の類には属さないだろう。
「ねぇ、昔の記憶って本当にないの?」
 あるとき蜜宵月が言った。
 やはり夕暮れで、しかしこの時はブランコではなくベンチに座っていた。
「ないよ」
「何も?」
「何も」
 蜜宵月の大きな瞳が紫月を見つめる。
「昔のあなたは、忘れたかったの?」
「……さあ、どうだろう。でも思い出せないと前へ進めない」
 今のままではあまりにも自分の存在が不確かで、今すぐにでも消えてしまいそうだ。記憶がないことをそう悲観してはいないが、過去がないことが不安を掻き立てる。
「例えば、私の名を知る人が一人もいなくなったら、私の存在は消えてしまうのかしら」
 蜜宵月が呟く。
「私が覚えているよ」
「でもそれは生まれ持った名前じゃないわ。私にとっては本当の名前だけど、別の名前で呼ばれていたときの私は、消えてしまった?」
「わからない」
 夕日が沈んで辺りが闇に溶け始める。もうすぐ、この時間も終わる。
「……でもそれは、蜜次第だと思う」
「あなたがあなたなのは自分の意思?」
 紫月は黙って頷く。
「じゃあ、あなたがあなたでなくなったのは?」
「……あるいはそれも」
「そう」
 公園の街灯はずいぶん前からつかなくなっている。人気のない公園が闇に包まれるまでが、二人のいられる時間。確実な夜がやってくる前に、必ずどちらかが逃げるように立ち上がる。
 この日、それは紫月だった。
 黙って立ち上がった紫月を蜜宵月が一瞥する。彼女は何か考えているらしく、視線はすぐに微かに夕日の名残を残す空へと向けられた。
 じゃあ、とかまた、とか適当な言葉を言って、紫月は蜜宵月の背を向ける。
(あずさ)撫子(なでしこ)
 去っていく紫月の背中にまっすぐな声が届いた。
 蜜宵月を振り返れば、彼女は以前として空を空を睨んだまま座っている。
「覚えていて。私の名前」
「わかった」
 黒い服に包まれた蜜宵月の長い手足が、まるで闇に溶けていくように佇んでいた。


 どこへ行くにしても駅に向かっていて損はないだろうと、紫月は足早に人混みの中を進んでいた。
 駅手前の交差点で立ち止まったとき、携帯が無機質な音を立てる。
 見馴れた相手からのメールにはとある高校の名前と最寄り駅だけが示されていた。
 この学校なら知っている。以前に一度、仕事の関係で行ったことがあった。今いる場所からもそう遠くはない。
 手早く礼だけを返信して、紫月はさらに足を進めた。
 思えば、あの公園以外で蜜宵月と会うのは初めてだ。相方に携帯を持たされたとき、番号とアドレスを彼女にも教えていたが、連絡が来るとは思っていなかった。そしてまた、紫月自身も蜜宵月に教えてもらったそれに、連絡を入れることなどないだろうと思っていた。
 黄昏もとうに過ぎ、灰色に浮かび上がる雲の隙間から月が皓々と覗く頃。小さな音とともに紫月は錆の浮いた校門を乗り越えた。
「……にしても、ここのどこにいるって言うんだ?」
 学校の敷地内に入った紫月は、人目に付かないところへ素早く移動しながら小さく首を傾げる。最近の学校は機械による夜間警備を取り入れたりして厳重だ。この高校も例外でなく、おそらくどこもしっかりと締め切られているだろう。
 ほとんど目隠しのない校庭にいるとはあまり考えられないし、少なくとも校門から見える範囲に人がいる気配はない。
 紫月は携帯を取りだし睨むが、あれ以降蜜宵月からの連絡は一切ない。一応、学校に着く直前にメールを送ってはいるが何の返答もなかった。
「見つけろってことか」
 そもそもこの高校の名前だって彼女から伝えられたものではない。
 ため息をついて、目の前にそびえる校舎を見上げる。それなりに年季の入った建物は、まるで廃墟のように沈黙している。
 なんとなく、蜜宵月は校舎の中にいる気がした。
 紫月は足音を忍ばせながら、校舎の周りを歩いた。ガラス扉の向こうに薄汚れた下駄箱が並ぶ昇降口を横目に、コンクリートがしかれた中庭を通る。
 見覚えがあるのは一度訪れたからだろうか。
 それとも、消えてしまった記憶の中に眠るかつての「彼女」が見た景色を思い出しているのだろうか。
「学校っていうモンは、まったく違う場所だってのに懐かしさを感じるから不思議だな」
 仕事でここに来たとき、相方がそう呟いたのを思い出す。
 あのときは、懐かしさなど感じなかった。そういうものなのか、と聞き返した。
「夜の学校に懐かしさを感じるって、どういう不良だよ」
 闇の中に彼女の声が溶ける。
 不意に、視界の端を何かがよぎった気がして気を引き締めた。
 息を殺して周囲の様子をうかがう。
 誰もいない右側。少しだけずれた右の視界。
 はた、と布のはためく音がした。上だ。
「……蜜?」
 見上げた紫月の前で、白い布が風に舞っている。窓が開いてカーテンが外に出ているのだ。そこには人の姿は見えない。
 でも、そこにいる。
 あの場所は、紫月と相方が依頼人と会った場所だ。人捜しを頼んできた彼女、幽霊が出るからと日が沈む前に逃げるように教室から出た。
 紫月の背中に冷たいものが走ったとき、すぐ近くの扉が軋んだ。
 咄嗟に音の方向を睨むと、さっきまで閉じていたはずのガラス扉がまるで手招きするように風に揺れていた。
 再び上を見上げる。
 はためいていたカーテンは、いつの間にか窓の向こうに戻っていた。ぽっかりと開いた窓の中には、ただ暗い闇だけがある。
 紫月は深い息を吐いて、昇降口へと向かった。

 人捜しを依頼してきた少女は学校の教室を待ち合わせの場所にしていた。もともと制服の指定がない高校で、部外者でも簡単に出入りすることが出来たからだ。外で会うよりも、学校内であっていた方が不審に思われないだろう、というのが彼女の主張だった。
 放課後の教室で彼女に声をかけたとき、その表情はこわばっていた。
「―――――さんですね?」
「はい」
「ご連絡を差し上げた『何でも屋』です」
 紫月の隣で男が柔らかい声を出す。
「あ、はい。……あの、すみませんが場所を変えてもいいでしょうか?」
「構いませんが……」
 男と紫月は拍子抜けたような顔をする。
 その間にも依頼人は二人の横を抜けて廊下へと出てしまっている。
「……この教室には、幽霊が出るっていう噂なんです。信じているわけじゃありませんが、なんとなく居づらくて」
「幽霊、ですか」
 学校には怪談が付きものなんだな、と紫月は思う。
「はい。なんでも何年か前に行方不明になった生徒が真夜中にこの教室に立っていると……ああ、でも今回のこととはたぶん関係がありません。捜して欲しいのは私の幼馴染みで、ここの生徒ではありませんから」
 それ以降、彼女が幽霊の話をすることはなかった。事実、幽霊と依頼は何の関係もなく、話を聞いた後しばらくして依頼は無事解決した。
 あの時は気にも留めなかった。
(……まさか、その幽霊が、蜜?)
 月明かりを反射する冷たい廊下を歩きながら、紫月は考える。
 紫月は蜜が外で寝泊まりしているということしか知らない。家がないのか、家に帰っていないのか、それが自らの意思なのかそうでないのか。
(家を出て、それで時々ここに顔を出してるって考えれば幽霊も納得がいくっちゃいく)
 学校の警備だって完璧ではない。穴ならいくらでもあるだろうし、穴を作る方法だってある。そもそも制服がなく出入りの制限がないなら、夕方に忍び込んでずっと隠れていればいいだけの話だ。
 ひたひたと廊下の冷たさが素足を伝わって昇ってくる。
 さすがに土足のまま入るわけにもいかず、掃除が行き届いていないのか砂だらけの廊下を靴下で歩くのもどうかと思ったからだ。素足なら、あとで洗うなり何なりすればいい。水道ならそこら中にあるのだから。
 月明かりとどこからか入る街灯の光が、階段をオブジェのように演出している。こんなときでなければ写真に納めたいと柄にもなく思った。
 目指すのは二階。ゆっくりと昇っていくたびに、いつだったかもこうやって昇ったことを思い出す。
 あれはいつだったか。
 そう、自分は裸足ではなく、唯一学校指定の汚れて灰色になった上履きを履いて、無感動に昇っていた。
 この階段を。
(……え?)
 紫月の足が止まる。
 視線の先にはあの時依頼人と会った教室の扉が見える。暗く闇の中にぼんやりと浮かび上がる扉。
 その先に蜜宵月はいる。
 確信していた。いや、疑うことすらしてなかった。当たり前すぎて意識しないほどに、それは紫月の中で事実として存在していた。
「私、は……知っていた?」
 この階段も校舎も学校も。真夜中の月の光に浮かび上がる、儚くも強い存在。
 そしてその向こう側。
 吸い寄せられるように紫月の足が動いた。
 滑り悪い扉を開ける。音が響いた。

「こんばんは、紫月」

 月明かりが窓からはいる教室、雑然と並んだ机に腰かけながら蜜宵月は微笑んでいた。
 見馴れた蜜宵月の姿がそこにあった。すらりと伸びた四肢、黒と藍色で統一された服、紫月を見る大きな黒い眼。
「蜜?」
 だが、何かが違う。
 蜜宵月を包む退廃的な空気、その奥にある終焉への願望と忌避、そういったものが今はない。紫月の知る彼女らしさが欠落している。
 強い、夜の匂い。
「ねぇ、紫月。貴女は覚えている? 私の名前」
「梓撫子だろ。蜜が教えてくれたんじゃないか」
 色をなくした蜜宵月の唇が動く。まるで人形だ。
「そうね、そうだったね」
 蜜宵月の視線がゆらりと揺れる。目は窓の目の前にある黒板を向いているが、それは何も見ていない。
 奥底に潜む、夜だけを見ている。
「……蜜?」
「私、嬉しかったの」
 目を合わせないまま、蜜宵月が歌うように語る。
「貴女が覚えていた名前が、紫月だったこと。でもね、紫月。貴女はここにいたんだよ(ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ)
「―――――――……!」
 キン、と耳鳴りがした。
 二人を取り巻く空気が変わる。音もなく、何かか迫ってくると感じる。
 知っている、いや、覚えている。これは。

「あの日、貴女が夜の向こうへ消えた日、貴方は何を思っていたの?」

 消して大きくはない声のはずなのに、蜜宵月の声は紫月の耳を揺さぶる。
 声が波紋となって響いている。
 いつまでも余韻が消えない。
「何の、話……」
 違う。自分は知っている。彼女がこれからどこへ行こうとしているか。何をしようとしているか。
 それはかつて、
「あの日、貴女がしたことよ」
 蜜宵月が笑う。
 蜜宵月と名乗る、梓撫子が笑う。
「貴女に会えてからずっと考えていた。夜の向こうへいった貴女が、紫月として還ってくるなら、私も蜜宵月として還ってくることが出来る」
「待ってくれ、蜜」
「私は一度私でなくなって、もう一度貴女と出会うよ。明日生きるために、今日死ぬの」
 世界が揺らぐ。
 さっきまで二人の前で沈黙していた黒板が歪み、暗く澱んだ空間が穴を開ける。
 夜にしか開かない、その向こう側へと繋がる道。
 かつて、紫月が歩んだ道。
「だから紫月、覚えていて。私たちがお互いに名乗った名前があったこと。私たちだけの名前があったこと」
 蜜宵月が一歩を踏み出した。
 深い深い夜が、彼女を迎え入れようとする。黒と藍色の服が闇に溶けるように境界をなくしていく。
 紫月、と彼女が呼ぶ。
 蜜、と彼女が呼ぶ。
 それはいつだったかの黄昏の時間。まだあるべき名前に囚われていた幼い夕暮れ。
 変わってしまった、変わることのないこの教室で。
「蜜……!」
 紫月の目から涙がこぼれる。
 その透明な雫を見て、蜜宵月は困ったように笑った。けれど、紫月から視線をそらし、深い夜の向こうを見据える。


「 サ ヨ ナ ラ 」


 そして、彼女は振り返らなかった。




 明るい日射しが降りそそぐ駅前で、ひとりの少女が座り込んでいた。
 黒と藍色で統一された服に身を包み、「彼女」はひなたぼっこをする猫のように気持ちよさそうに眼を閉じている。
 最近は暖かくなってきて、ホームレスにも過ごしやすい陽気になったようだ。寒さに身を縮めて震えていた様子を覚えている紫月は、ほっと安堵したように息を吐いた。
 ゆっくりと足音は殺さず、わざと音を立てるようにして「彼女」に近づく。
 足音に気が付いた「彼女」が顔を上げた。紫月の顔を見て、花がほころぶような笑顔を見せる。正確には、彼女の顔とその手に握られたパンの耳の袋を見て。
「紫月、また来てくれたの?」
「まあね。これも手に入ったし」
 紫月はパンの耳を嬉しそうに受け取る「彼女」の隣に座り込む。隣では早速パンの耳を口にくわえていた。
「うん、やっぱり一番退廃的になれるのはこれね。お酒もいいけど、気分良くなっちゃうし」
 はむはむとパンの耳を銜えながら喋る様子に、紫月は肩をすくめる。
 あれから、あの夜からしばらくして、紫月は一人のホームレスと親しくなった。引き受けた仕事の関係で、この辺りのホームレスに話を聞いていたときの一人だ。
 「彼女」とはなにかと馬が合い、よくこうして好物を届けに来たりするようになった。時折、どちらかが誘って飲みに行くこともある。
 そのせいで約束をふいにされる相方は嬉しくなさそうだが、楽しそうな紫月の姿や様々な思惑と、彼なりに思うところがあるのか表立って文句を言ったりはしない。
「そうそう、この前言ってた猫、あっちの路地裏で見たよ」
 袋から取り出したパンの耳で通りの向こうを指し示す。
「あの美容院のところの横道?」
「うん、誰かが餌とかあげてるみたい」
「そっか。ごめん、ちょっと見てくる」
 紫月が立ち上がると、「彼女」はパン耳を銜えながらひらひらと手を振った。
 言葉なく頷いて紫月は駆け出す。

 「彼女」の名前は蜜宵月。
 その本当の名前を、紫月だけが知っている。





終幕



Home